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三島由紀夫と郡内地方


三島由紀夫

本名平岡公威(きみたけ)。大正14年(1925年)1月14日東京都四谷区(現新宿区)生れ。

祖父は樺太庁長官をつとめた平岡定太郎(ていたろう)。
華麗な文体と、特異な心理分析、古典的美によって裏打ちされた作風で多くの作品を発表。
代表作に「仮面の告白」「潮騒」「金閣寺」「豊饒の海」などがあり、ノーベル文学賞候補に何度も挙げられたことがある。
後年、芸術至上的な独特な思想に傾く一方、次第にナショナリズム的色彩を強めていった。
昭和45年(1970年)11月25日市ヶ谷にある陸上自衛隊東部方面総監部に乱入、自衛隊員に憲法改正への蹶起を促したが失敗、割腹自殺。享年45歳。毎年11月25日には「憂国忌」が営まれる。
なお、平成10年7月に完成した山中湖村「山中湖文学の森」に、三島由紀夫文学館が建設され平成11年7月3日オープンいたしました。「豊饒の海」創作ノートや生原稿のほか、多数の貴重な資料が収蔵されております。


鏡子の家

四部作『豊饒(ほうじょう)の海』第2巻『奔馬(ほんば)』

四部作『豊饒(ほうじょう)の海』第3巻『暁の寺』


四部作「豊饒の海」

三島由紀夫のライフワークといわれ絶筆となった長編小説で、第一巻「春の雪」・第二巻「奔馬」・第三巻「暁の寺」・第四巻「天人五衰(てんにんごすい)」の四巻からなる。
古典「浜松中納言物語」に題材をとり、夢と転生をモチーフとして、各巻毎に時代と背景と環境の異なる独立した物語として完結しながら、それぞれの主人公が歴史の流れとともに、輪廻・転生の不可思議な縁でつながるという、近代文学史上かってない文学的構成の大長編小説。


鏡子の家

昭和33年10月季刊誌「声」に発表、翌34年9月新潮社より刊行される。
この作品に対する評価は様々に分かれているが、その後の三島の行動を探る上では重要な作品といわれており、特に評論家故江藤淳はこの作品を高く評価した。

足和田村西湖・根場 青木ケ原樹海

 

nenba.jpg

・・・富士吉田は、八月末の火祭りの日であった。
その土地の友人から遊びに来いと言われ、私はいまは暑いからいやだ、もっと涼しくなってから参りますと返事したら、その友人から重ねて、吉田の火祭りは一年に一度しか無いのです、吉田は、もはや既に涼しい、来月になったら寒くなります、という手紙で、ひどく怒っているらしい様子だったので私は、あわてて吉田に出かけた。・・・

・・・毎年、富士の山仕舞いの日に木花咲耶姫(このはなさくやひめ)へお礼のために、家々の門口に、丈余の高さに薪を積み上げ、それに火を点じて、おのおの負けず劣らず火焔(かえん)の猛烈を競うのだそうであるが、私は、未だ一度も見ていない。・・・

 

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四部作『豊饒(ほうじょう)の海』第2巻『奔馬(ほんば)』

昭和42年2月から翌43年8月迄雑誌「新潮」に連載、44年2月新潮社より刊行される。


大月市梁川・上野原町四方津

第二十二章

・・・いずれにしても明晩か明後日の早朝東京を発(た)たねばならぬ。
本多は断わったが、飯沼がしつこくすすめた。
ほかにもてなしの方便を知らないのであろう。
とうとう本多は、身分を隠すということを条件に同行を承諾し、出張の最後の朝はせめて十分に寝坊をしたい本多の都合で、十一時に新宿駅で待ち合わせることになった。
中央線で二時間近い塩津(四方津)の駅から、更に一里ほど桂川ぞいに歩いてゆくのだそうである。

眞杉海堂は甲斐国南都留郡梁川の、丁度桂川が直角をなして瀬走る本沢というところに、川へせり出したひろい露台(ろだい)のような、二町五反の田地を持っている。
田地を前に控えて、数十人の泊まれる道場があり、神社がある。
西側の吊橋の畔に小屋があり、そこから段を下りて禊(みそぎ)所へ行けるようになっている。
田畑は塾生が耕した。・・・

第二十三章

それは十月下旬の午後三時ごろの、すでに日が山かげに落ちかけた時刻で、雲が斑(ふ)をなす空の光りが、霧(き)らうようにあたりの風景を包んでいた。
飯沼の一行は古い吊橋を三、四人ずつ黙々と渡った。
橋の北側が深く澱んだ淵であるのに、南側の禊所は玉砂利の岸を控えた浅瀬になっているのを、本多は脚下に瞰下(みお)ろした。
この朽ちかけた吊橋が、丁度淵と瀬を分けているのである。・・・

・・・二十人近い人数が渡り切るには、かなり待たねばならない。
本多は塩津(四方津)から梁川までの一里の道のりの間に見馴(みな)れた秋の山のたたずまいを、改めて見廻した。・・・

・・・するうちに、一軒の家の外れから、突然、展望がひらけた。
道も俄(にわ)かに、嘉永年間の大念仏供養の石碑が草に埋もれたあたりから、ひろびろとした畑中の道になった。
南西に迫る小山が一つあるばかりで、ゆくての高い御前山(ごぜんやま)も、北を囲む山々も、川や街道のかなたに身を離し、ここまで来ると、御前山山麓の一つの部落のほかには人家らしい屋根も見えない。・・・

・・・南西の小山は、粉をまぶしたような紅葉に覆われているが、北は桂川の崖端まで展(ひら)けている。
その田中にただ一本、落雷に引裂かれた杉が立っていて、裂かれてややのけぞった幹のほうの葉は、ことごとく枯れて乾いた血のような色をしている。
根方はやや田面(たのも)から高まって、そこに芒(すすき)の草むらが八方へ白くはじけている。・・・

四部作『豊饒(ほうじょう)の海』第3巻『暁の寺』

昭和43年9月から45年4月迄雑誌「新潮」に連載、45年7月に新潮社より刊行される。


富士吉田市北口本宮富士浅間神社

第二部二十八章
jinja1.jpg浅間神社本殿 あくる日も快晴だったので、本多夫婦は、泊まり客三人に、隣人の慶子も誘って、富士吉田の富士浅間神社まで、二台の車に分乗して遊山に行った。・・・
・・・富士は冷静的確でありながら、ほかならぬその正確な白さと冷たさとで、あらゆる幻想を許していた。
冷たさの果てにも眩暈(めまい)があるのだ、理知の果てにも眩暈があるように。
富士は端正な形であるがあまりに、あいまいな情念でもあるような、ひとつのふしぎな極であり、又、境界であった。
その境界に二人の白衣の美女が舞っていたということは、ありえないことではない。
之(これ)に加えるに、浅間神社の祭神が、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)という女神であることが、本多の心をしきりに誘(いざな)った。・・・
大鳥居 ・・・六人は相扶(たす)けて雪じめりの参道を歩いた。
木洩れ日が残雪の一部を荘厳にした。
jinja2.jpg茶色の杉落葉を堆(うずたか)い残雪に零(ふ)らしつづける老杉の梢には、霧のような光りがこもり、ある梢は緑の雲が棚引くようである。
参道の奥に、残雪に囲まれた朱の鳥居が見えた。・・・
・・・一行はついに高さ六十尺に近い朱塗りの大鳥居に到り着き、これをくぐると朱の楼門の前に、高く積まれた汚れた雪が取り囲む神楽殿(かぐらでん)にぶつかった。
神楽殿の軒の三方には、七五三縄(しめなわ)が張りめぐらされ、高い杉の梢から、一条の歴々たる日ざしが、丁度床の上の白木の八朔台に立てられた御幣(ごへい)を照らしていた。
まわりの雪の反映で、神楽殿は格天井(かくてんじょう)までも明るんでいたが、御幣には届く日光はひとしおまばゆく、気高い幣(ぬさ)は微風にそよいでいた。・・・